結局のとこ暴力が最強



どんなに権力を持った偉い人でも、どんなに才能に溢れた凄い人でも、
一発の銃弾が心臓を貫いたら大抵命を落としてしまう。
銃弾でなくても、鋭利なナイフで刺されるだとか、
鈍器なような物で何度も殴られるとか、
そういう物理的に強いダメージを受ければ人は死んでしまう。

人には個性があって、人によって違いがあるから、
人によって少しずつ考え方も、行動の取り方も、表現の仕方も、生き方も変わってくる。
だからこそその違いによって色んな結果が産まれるわけで、
色んな結果が色んな形(見えるにしろ見えないにしろ)を産み出すわけで、
その様々に産まれてくることこそが大切なことだと思う。
生物多様性とか言うけど、人間一つとってもその多様性が面白いと思う。

その様々なものが、暴力一つで失われるならそれはとても悲しいし、
それはとても危険なことだと思う。
色んな形はあっていいけど、その中には良くない形もあって、
暴力は分かりやすい良くない形の一つだと思う。


だからきっとそんな暴力がなるべく起こらないように、ルールを作った。
酷い暴力をしたら捕まって処罰を受ける。皆知ってることだ。
そうなると処罰を受けないために、暴力は無くなってくる。
もちろん今でもあるだろうけど、何も無かった頃よりは減ったはずであろう。
続けて暴力を行うことが難しいからだ。

暴力を使えば証拠が残る。
顔はやめてボディーにした所で、服を脱げば証拠が分かる。
証拠があれば暴力を使った人間が捕まりやすくなる。
捕まれば暴力の数は減る。
こうしてルールによって暴力は減ったように思う。
なので暴力はそんなに最強じゃなくなった。
ように見える。


しかしルールを作った所で、
暴力を使おうとする人間はいるのだと思う。

気に入らない人間がいて、その人を排除したいと思う人がいる。
その時に方法として暴力を選択して、暴力によって取り除こうとする人間はいるだろう。
その感覚を変えるのは難しいように思う。性格に近い部分だと思うからだ。
いくらルールで縛った所で、処罰されても構わないとするなら、一回限定で暴力は使える。

しかし、これが一回限定なのは、証拠があって捕まってしまうから。
しかしもし証拠が無ければどうだろう。
誰にも暴力があったなど分かりもしなければ、
ルールが無い頃に暴力を使い続けられた人と変わらないように出来るのでは。回数無制限に。
暴力を使う人間とて、
捕まりたくない、処罰されたくないと思う気持ちはあるだろう。
ならば証拠が残らない暴力があればそれに頼るはずだ。


証拠が残らない暴力があるなら、
それはきっと物理的な暴力ではない。
どんなに難解なトリックを使ったって、
どこかに不自然な傷や跡があればそこから探り出されてしまう。
それを消すために隠滅を計ったら結局それ自体がまた新たな痕跡になってしまう。
物理的な暴力は証拠が残る。

証拠の残らない暴力があるならそれはきっと精神的な暴力になる。
誰かが誰かを「お前は馬鹿だ!!!!死ね!!!!」と怒鳴りつける。言われた相手は傷つく。
もちろんこれ一回じゃ死にはしない。
しかし意外とこれは証拠に残らない。
周りの人が聞いていれば裏は取れるかもしれない。
けど、他に誰も聞いていなかったら。
言われて傷ついた相手が抵抗しなかったら。
抵抗出来ない状況があったら。
そんな状況すら作られてしまったら。

証拠が残らないのなら、何回でもその暴力が使えるわけで、
そのやり方次第では、一回目がだめでも何回も続ければ何かしらの効果が出てくる。

そもそも、今のは分かりやすいもので、怒鳴りつけなくたって暴力は使える。
静かなトーンだろうが例えば「お前は無能です」ってメッセージを伝え続けるだけでも効果はある。
その言葉そのものでなくたっていい。
目的を持って永遠に相手を否定し、良い所を無視して、少しでも悪い所を拡大解釈すればいい。
物は言い様だから、相手の長所を短所としてねじ曲げて捉えたっていい。
そういったメッセージの形や伝え方は一つではないから、複雑にして徐々に蝕むことだって出来る。
相手の知らない場所から延々と攻撃することだって出来る。
そうやってひたすら時間をかけて相手を否定し続けて、効果を出すことが出来るなら、
それはまさに暴力そのもので、
相手が自分を見失って空っぽになったのなら、
それは体が動いて生きていた所でもう死んでいるようなものである。

どんなに権力を持った偉い人でも、どんなに才能に溢れた凄い人でも、
そうされて、そうなってしまったら、それはもう死んでいるようなものである。
だから精神的な暴力は相手を殺せる。証拠は残らない。
事実体は生きているのだから殺人ではない。
殺人は物理的な暴力となって証拠が残ってしまう。
しかしこれなら証拠のある事件ではない。
もうちょっと言えば、自殺だって事件にはならない。
それは相手が望んでしたことに出来るのだから。


精神的な暴力は証拠が残りづらい。
だから一回と言わず何回でも実行出来る。だから恐ろしい。
そして防ぐのが難しい。


物理的な暴力なら、仮に防弾チョッキを着ていればどこから撃たれようが銃の衝撃は緩和できる。
精神的な暴力は、着ていた所で意味が無くて、
耳や目が機能していればそれだけでどこからでもやってくる。
つまり物理攻撃より範囲が広い。
それでも守る為には自分自身で守らないといけない。
自分の気持ちや考え方。時にはその状況そのものから、とにかく上手く切り替えなければいけない。
一人でどんどん空っぽになってしまったら厳しい。
本当は心から信頼出来る人間を頼ることが出来ればきっとそれが一番いい。
もしそういう人がいなくても、もちろんいたとしても、
必ずその見えない暴力を暴力と認識して、対応することは必要だ。
暴力は悩みと違って自分の中でなく、必ず誰かの外側からやってくる。
時にはその認識をする前に躍らされて自分を見失ってしまうことさえあるように思う。
なので時には客観的に気をつけてみる必要はあると思う。


精神的な暴力を物理的な暴力と比べると、
攻撃範囲が広く、いつでも使えて、証拠が残らないので、何度でも使える。
よほど危険である。
そしてそのやり方の複雑さから物理的な暴力と違い、
今でも処罰されるためのルールは施されていない。
一応会社内でのハラスメント対策みたいなものがあるにはあるが、
このパターンでさえ該当ケースを掴むことすら難しい上に
該当したと分かった所でそのルールを使用する人間の数の方が少ないだろう。
空っぽになった人間が戦うことは難しい。
そして現実の精神的な暴力はもっと日常的なシーンで幅広く多く行われている。


気に入らない誰かや何かを攻撃したいと思う人間は必ずいる。
本当は自分自身を改善しなければいけないことでも、相手を攻撃する人間は必ずいる。
その手段として暴力を選択する人間は必ずいる。
そういう人間が証拠の残りにくい精神的な暴力を使用するケースは必ずある。
捕まらずに処罰されないのだから、永遠に続けられる。
そしてそれはきっと強い。暴力だからだ。
銃弾を撃つのと、ナイフで刺すのと変わらない。殺すことが出来る。
そうやって相手を排除し続ければ生き残ることが出来る。
生き残るほど、排除された人間とは逆に、精神的な暴力を使う人間の数は相対的に増える。
証拠が残りにくいのだから、処罰されない以上、これからも時間をかけて着実に増えていくだろう。
こうなると形が変わっただけで、安易な暴力がはびこっていたルールの無い時代と変わらなくなる。


それでも自分の身は自分で守らなければならない。

どう守るか。
暴力を暴力で潰すのはきっと意味が薄い。
物理的な暴力に対して最も効果をあげたのは、処罰するというルールを設けたことだと思うからだ。
精神的な暴力も同様に出来ればいいのだろうが、
証拠が残りにくいこれらに、もしそんな対策さえ出来ないのなら、
せめてまずは自分を守ることだと思う。
自分をちゃんと守ることが出来て、その守れることが自信になれば、守りたい人も守ることが出来るはず。
ただ残念なことに、自分には完璧で効果的なこれという対策は思い付かない。
相手としっかり距離を置いて、自分の気持ちを切り替えていくようにするとか、
モヤモヤした部分は趣味なりで上手にストレス発散するとか。
どうしてもという時は頼れる人に頼るとか、しかるべき施設に相談してみるとか。
それぐらいしか。
これだけでも効果が出ると思いたい。けれど。この曖昧さが自分の残念な所。


しかし暴力から自分の身を守って、守る人が少しでも増えて、
皆が守っていくようにしていかなければ、
結局形が変わっただけで、暴力が最強になってしまう。
やっぱり誰かの安易な暴力によって人の多様性が奪われてしまうのは危険だと思う。


これから先、より精神的な暴力は多くなっていくように思う。
攻撃範囲が広い以上、いつ自分にそれが降りかかってくるかも分からない。
なので事前にそういう危険があるかもしれないと心に留めておくだけでも対策になると思う。
きっと幸せに生きようと思ったら、
幸せを思い描くことや、それに向けて行動するという自分からの姿勢と、
こういった危険からちゃんと自分達を守っていくという知って理解するという要素も必要になるのかなと思った今日この頃でした。