結局のとこ暴力が最強



どんなに権力を持った偉い人でも、どんなに才能に溢れた凄い人でも、
一発の銃弾が心臓を貫いたら大抵命を落としてしまう。
銃弾でなくても、鋭利なナイフで刺されるだとか、
鈍器なような物で何度も殴られるとか、
そういう物理的に強いダメージを受ければ人は死んでしまう。

人には個性があって、人によって違いがあるから、
人によって少しずつ考え方も、行動の取り方も、表現の仕方も、生き方も変わってくる。
だからこそその違いによって色んな結果が産まれるわけで、
色んな結果が色んな形(見えるにしろ見えないにしろ)を産み出すわけで、
その様々に産まれてくることこそが大切なことだと思う。
生物多様性とか言うけど、人間一つとってもその多様性が面白いと思う。

その様々なものが、暴力一つで失われるならそれはとても悲しいし、
それはとても危険なことだと思う。
色んな形はあっていいけど、その中には良くない形もあって、
暴力は分かりやすい良くない形の一つだと思う。


だからきっとそんな暴力がなるべく起こらないように、ルールを作った。
酷い暴力をしたら捕まって処罰を受ける。皆知ってることだ。
そうなると処罰を受けないために、暴力は無くなってくる。
もちろん今でもあるだろうけど、何も無かった頃よりは減ったはずであろう。
続けて暴力を行うことが難しいからだ。

暴力を使えば証拠が残る。
顔はやめてボディーにした所で、服を脱げば証拠が分かる。
証拠があれば暴力を使った人間が捕まりやすくなる。
捕まれば暴力の数は減る。
こうしてルールによって暴力は減ったように思う。
なので暴力はそんなに最強じゃなくなった。
ように見える。


しかしルールを作った所で、
暴力を使おうとする人間はいるのだと思う。

気に入らない人間がいて、その人を排除したいと思う人がいる。
その時に方法として暴力を選択して、暴力によって取り除こうとする人間はいるだろう。
その感覚を変えるのは難しいように思う。性格に近い部分だと思うからだ。
いくらルールで縛った所で、処罰されても構わないとするなら、一回限定で暴力は使える。

しかし、これが一回限定なのは、証拠があって捕まってしまうから。
しかしもし証拠が無ければどうだろう。
誰にも暴力があったなど分かりもしなければ、
ルールが無い頃に暴力を使い続けられた人と変わらないように出来るのでは。回数無制限に。
暴力を使う人間とて、
捕まりたくない、処罰されたくないと思う気持ちはあるだろう。
ならば証拠が残らない暴力があればそれに頼るはずだ。


証拠が残らない暴力があるなら、
それはきっと物理的な暴力ではない。
どんなに難解なトリックを使ったって、
どこかに不自然な傷や跡があればそこから探り出されてしまう。
それを消すために隠滅を計ったら結局それ自体がまた新たな痕跡になってしまう。
物理的な暴力は証拠が残る。

証拠の残らない暴力があるならそれはきっと精神的な暴力になる。
誰かが誰かを「お前は馬鹿だ!!!!死ね!!!!」と怒鳴りつける。言われた相手は傷つく。
もちろんこれ一回じゃ死にはしない。
しかし意外とこれは証拠に残らない。
周りの人が聞いていれば裏は取れるかもしれない。
けど、他に誰も聞いていなかったら。
言われて傷ついた相手が抵抗しなかったら。
抵抗出来ない状況があったら。
そんな状況すら作られてしまったら。

証拠が残らないのなら、何回でもその暴力が使えるわけで、
そのやり方次第では、一回目がだめでも何回も続ければ何かしらの効果が出てくる。

そもそも、今のは分かりやすいもので、怒鳴りつけなくたって暴力は使える。
静かなトーンだろうが例えば「お前は無能です」ってメッセージを伝え続けるだけでも効果はある。
その言葉そのものでなくたっていい。
目的を持って永遠に相手を否定し、良い所を無視して、少しでも悪い所を拡大解釈すればいい。
物は言い様だから、相手の長所を短所としてねじ曲げて捉えたっていい。
そういったメッセージの形や伝え方は一つではないから、複雑にして徐々に蝕むことだって出来る。
相手の知らない場所から延々と攻撃することだって出来る。
そうやってひたすら時間をかけて相手を否定し続けて、効果を出すことが出来るなら、
それはまさに暴力そのもので、
相手が自分を見失って空っぽになったのなら、
それは体が動いて生きていた所でもう死んでいるようなものである。

どんなに権力を持った偉い人でも、どんなに才能に溢れた凄い人でも、
そうされて、そうなってしまったら、それはもう死んでいるようなものである。
だから精神的な暴力は相手を殺せる。証拠は残らない。
事実体は生きているのだから殺人ではない。
殺人は物理的な暴力となって証拠が残ってしまう。
しかしこれなら証拠のある事件ではない。
もうちょっと言えば、自殺だって事件にはならない。
それは相手が望んでしたことに出来るのだから。


精神的な暴力は証拠が残りづらい。
だから一回と言わず何回でも実行出来る。だから恐ろしい。
そして防ぐのが難しい。


物理的な暴力なら、仮に防弾チョッキを着ていればどこから撃たれようが銃の衝撃は緩和できる。
精神的な暴力は、着ていた所で意味が無くて、
耳や目が機能していればそれだけでどこからでもやってくる。
つまり物理攻撃より範囲が広い。
それでも守る為には自分自身で守らないといけない。
自分の気持ちや考え方。時にはその状況そのものから、とにかく上手く切り替えなければいけない。
一人でどんどん空っぽになってしまったら厳しい。
本当は心から信頼出来る人間を頼ることが出来ればきっとそれが一番いい。
もしそういう人がいなくても、もちろんいたとしても、
必ずその見えない暴力を暴力と認識して、対応することは必要だ。
暴力は悩みと違って自分の中でなく、必ず誰かの外側からやってくる。
時にはその認識をする前に躍らされて自分を見失ってしまうことさえあるように思う。
なので時には客観的に気をつけてみる必要はあると思う。


精神的な暴力を物理的な暴力と比べると、
攻撃範囲が広く、いつでも使えて、証拠が残らないので、何度でも使える。
よほど危険である。
そしてそのやり方の複雑さから物理的な暴力と違い、
今でも処罰されるためのルールは施されていない。
一応会社内でのハラスメント対策みたいなものがあるにはあるが、
このパターンでさえ該当ケースを掴むことすら難しい上に
該当したと分かった所でそのルールを使用する人間の数の方が少ないだろう。
空っぽになった人間が戦うことは難しい。
そして現実の精神的な暴力はもっと日常的なシーンで幅広く多く行われている。


気に入らない誰かや何かを攻撃したいと思う人間は必ずいる。
本当は自分自身を改善しなければいけないことでも、相手を攻撃する人間は必ずいる。
その手段として暴力を選択する人間は必ずいる。
そういう人間が証拠の残りにくい精神的な暴力を使用するケースは必ずある。
捕まらずに処罰されないのだから、永遠に続けられる。
そしてそれはきっと強い。暴力だからだ。
銃弾を撃つのと、ナイフで刺すのと変わらない。殺すことが出来る。
そうやって相手を排除し続ければ生き残ることが出来る。
生き残るほど、排除された人間とは逆に、精神的な暴力を使う人間の数は相対的に増える。
証拠が残りにくいのだから、処罰されない以上、これからも時間をかけて着実に増えていくだろう。
こうなると形が変わっただけで、安易な暴力がはびこっていたルールの無い時代と変わらなくなる。


それでも自分の身は自分で守らなければならない。

どう守るか。
暴力を暴力で潰すのはきっと意味が薄い。
物理的な暴力に対して最も効果をあげたのは、処罰するというルールを設けたことだと思うからだ。
精神的な暴力も同様に出来ればいいのだろうが、
証拠が残りにくいこれらに、もしそんな対策さえ出来ないのなら、
せめてまずは自分を守ることだと思う。
自分をちゃんと守ることが出来て、その守れることが自信になれば、守りたい人も守ることが出来るはず。
ただ残念なことに、自分には完璧で効果的なこれという対策は思い付かない。
相手としっかり距離を置いて、自分の気持ちを切り替えていくようにするとか、
モヤモヤした部分は趣味なりで上手にストレス発散するとか。
どうしてもという時は頼れる人に頼るとか、しかるべき施設に相談してみるとか。
それぐらいしか。
これだけでも効果が出ると思いたい。けれど。この曖昧さが自分の残念な所。


しかし暴力から自分の身を守って、守る人が少しでも増えて、
皆が守っていくようにしていかなければ、
結局形が変わっただけで、暴力が最強になってしまう。
やっぱり誰かの安易な暴力によって人の多様性が奪われてしまうのは危険だと思う。


これから先、より精神的な暴力は多くなっていくように思う。
攻撃範囲が広い以上、いつ自分にそれが降りかかってくるかも分からない。
なので事前にそういう危険があるかもしれないと心に留めておくだけでも対策になると思う。
きっと幸せに生きようと思ったら、
幸せを思い描くことや、それに向けて行動するという自分からの姿勢と、
こういった危険からちゃんと自分達を守っていくという知って理解するという要素も必要になるのかなと思った今日この頃でした。

普通の家族のDVDが欲しい



普通のブログをたくさん読んでいると
家族と話が出来て楽しい日だったみたいな内容のブログを見る。

久しぶりに電話で話してホッとしたとか
思わぬ所から話が弾んで楽しかったとか
毎日の当たり前のやり取りに一つ思ってみたりとか。

そういうのを読むといいなぁって思う。
憧れちゃう。

想像の世界だけど、
家に帰ったらおかえりって言ってくれる人がいたり、
外で何があったかなんてちょっと会話をしたりする。
一人暮らしだったら疲れた時に兄弟や家族とただ話すことが癒やされたりするんだと思う。
少し笑ったり、うなずいて終わったり、時にはちょっと言い合いになるかも。
けどそういう一言一言が何気ないもので、そこまで大事なものでもなく。
だからこそそれがとても良くて、相手のことを認めてるからこそ出る自然な言葉があると思う。
いつも大事な会話なんてしなくていい。

ドラマで見る家族の感じよりも、
旅番組やらドキュメンタリー番組なんかで見る本物の家族の何気ない一言にいいなぁって思う。

しかしそこでいいなーって思ってみた所で実際に細かく思いだそうとするとなかなか出来ない。
何気ないタイミングで言う何気ない一言は、同じ言葉を覚えた所で上手に再現出来ない。
それは自分の中で相手の存在が抜けているからだろう。

結局自分はそういう普通の会話が未だによく分からないままだし、
これは本当に、誰が相手でも何気ない会話をすることは出来ないと思う。
誰が相手でも、相手という存在が抜けているからだろう。
いつもオーバーか何も喋れないかになる。
だから余計に、そういう何気ない会話みたいに見えるものが素敵に思えるのかもしれない。

正直自分にはこれからもそれをすることは出来ないと思うので、
しかしそれでも憧れの気持ちは残ってしまっているので、
そういう普通の家族の何気ない様子をただ映したDVDとかあればなぁって思う。
ライブカメラみたいなのでもちょっとした動画みたいなのでもいいけど。
とにかくただそういう様子をぼーっと眺めて、その空間にある普通の空気を感じてみたい。
それで間接的にでも癒やされたらいいなぁなんて考えたりしてる。
自分がそこに関わったらああいう空気は絶対に出来ないから。

普通は凄いし何気ないことが出来ることは素晴らしいと思う。
自分がそうなれないなら、その良いものをダメにしないように、
如何に直接触れないようにするかが大事だと思う。
今はネットで直接相手に伝えることも出来るから、
そういう時もなるべく関わらないように気をつけたい。
多分間違ってると思うけど、分からないし自分が変わらないのだからこれでいいと思う。

ちょうどいいが無い人とはドライな関係を



全ての物は良く言うことも出来るし、
全ての物は悪く言うことも出来る。
前も一回書いたけど。


仮に待ち合わせをしたとして。

予定時間に遅れて来た人に
お前遅いよーと怒ることも出来れば
こっちも今来た所なんて言うことも出来る。

予定時間より少し早く来た人に
ごめんね待たせちゃってなんて言うことも出来れば
お前どんだけ早く来ちゃってんだよーと言うことも出来る。

遅くても早くても、じゃあ行こうかぐらいで話を進めることだって出来る。

同じ状態一つでも人によって発する言葉は様々で、
ただ大抵は何を言うかなんてその人の性格である。
そして基本的に良いことには良く、悪いことは悪く言うのが普通だと思う。


しかしこの普通が通らないような人もいる。

待ち合わせ時間に遅れた人を遅いと怒りながら、
待ち合わせ時間に早く来た人を早く来すぎとからかったりする。
ならばとジャストの時間に来てみればお前どんだけピッタリに来てるんだよと
結局どのタイミングで行った所で相手に何か良くないことをしたと思わせるような言葉を一つは言うような。
ちょうどいい所が無いのだ。

何の待ち合わせかにもよると思うけど、
仕事でない類の待ち合わせ程度なら時間ピッタリに来ようが少し早く来ようがまぁ多少遅れたってなんてことはない。
ただいちいちこういう細かい一つ一つに謎の評価が入り、
その評価は必ず相手を評価しない類のものになる、そういう人がいる。

子供がテストで0点を取ったら怒り、100点を取っても評価はしない。
どうせテストが簡単だったからでしょとか、
1回取ったくらいでそんなん言われてもとか、
その内他の子でも取った人はいるでしょとか、俺だって今やれば取れるとか、段々趣旨がズレてくる程に。

100点のテストと聞けば少しは良いこととリンクしそうなものだが、
これだけ良くない方向に物を捉えようと思えば出来るのかという勢いで評価される。
もちろんちょうどいい感じに80点ぐらい取ったって同じこと。

ここで間違えて100点のテストを取り続けたって評価はされない。
せいぜい新しい角度から悪い評価を頂けるぐらいだろう。
そんな人の期待に応えようとしたって意味が無い。なんとか負かしてやろうと思ったって意味がない。
やがてテストで100点を取れることが凄いことだって自分で気付けなくなったらヤバい。


相手の悪い所は指摘をして良いものを要求する、ここまではままあるのかもしれない、
ただ相手の良い点を捉えず、またその状態から良くない部分を見つける才能。
相手の良い所も悪く捉え続ければ悪い点にすることも出来るし、
そこからまた指摘して要求する態度に出ることだって出来るのだ。

脚の速い人は脚が速いからって大したこと無いし、
今時実際に走ることなんて無いんだからもっと他にやることがあるだろう。もっと勉強するとか。
頭の良い人がいてもそれが実際社会で役に立つかは別問題だし変に頭良すぎて周りを混乱させられても困る。
そもそも今時はコミュ能力が大事なんだからまずはそこからでしょ。勉強だけしてこられても。
人間関係が上手で友達がたくさんいた所でそもそも肝心の仕事が出来ないと話にならないよ。
むしろその友達とやらと遊んでばっかいられたらこっちも困るんだから、たまには集中して仕事のことも考えて欲しいね。

こうやって全て良くない方向に捉えることが出来る人がいる。
そういう才能のある人がいる。
今のことだって全て一つ一つ良く捉えることだって出来る。ていうかそっちのが簡単で自然だ。

こういう人にかかれば相手の人の良い部分、ちょうどいい部分なんて無くなってくる。
相手はいつもどこかおかしくて、悪い人間にすることが出来る。
その感覚ややり方はその人がその人自身で行うことなのだから、こちらからはどうすることも出来ない。

だからこそ、そういう人と関係することは危険なのである。

全ての物は良く言うことも出来るし、
全ての物は悪く言うことも出来る。

0点のテストを取っても褒めることは出来る。
よくそれを見せてくれたと勇気を褒めることも出来る。次頑張ろうと励ますことも出来る。
反省すべき点への指摘と相手の一つ一つに良くない評価をつけることは違う。


上ではちょっと例えるのに分かりやすい子供のテストにしてみた。
現実はもうちょっと複雑なはずだ。待ち合わせ時間だって単純。
もっともっと細かい部分、細かい所作、日頃の何気ない動作の一つ一つ。
歩く動作も、話す仕草も、笑い方も、食事の仕方も、食べているものだって、
そういうもっともっとたくさんある日々の当たり前のこと。
それらもそんな人にかかればどれも良くない方向に言うことが出来る。
そしてその一つ一つ全てにそういう評価が下されていく。
からかわれたり、大したことないって言われ続ける。

そして今、こういう才能を持っている人の数は多くなっていると思う。
これからも増えると思う。
単純に考えて、相手を貶めて自分が生き残るのに長けている方法に見えるからだ。
普通はそんなことする訳がないが、フラットな感覚でそれを出来るのだとしたら罪悪感などないだろう。
だからこそ才能だと思う。


自分の中の良い部分を自分で分からなくなってきたらそれはいけない。それこそが良くない。
自分を見失ったら誰がそれを取り戻すのか。
もし周りにそういう才能のある人がいたら、ますます悪い結果になるのは目に見えている。
自分を見失った貴方の自分を見失った点をからかわれて笑いものにされるのは当然の流れだろう。

だからこそ、もしそんな人が周りにいて、もし関係を断てない間柄なのだとしたら、
せめてドライな関係であるよう心がけるべきだと思う。
いちいち気にしないことだと思う。
そしてあの人は全ての対象を良い方向には評価しない人なのだと正しく捉えることが大事であると思う。

物は言い様だから、一方向の意見しか出ないものは大抵ヤバい



全ての物は良く言うことも出来るし、
全ての物は悪く言うことも出来る。


今日の天気が快晴だったとして、
天気が良いから気分が良いと言うことも出来れば、
日差しが強いし暑くて嫌だと言うことも出来る。

反対に今日の天気が雨だったとして、
湿っぽくて暗いから気分が沈んで嫌と言うことも出来れば、
雨音が耳に心地よくて好きだと言うことも出来る。


毎日こうしてパソコンをやり続ける。
そんなにしてると目が悪くなるよとかたまには現実の世界も見ようねなんて言うことも出来れば、
ちょっとしたことを調べるのに便利だし買い物も安く出来たりして良いよねなんて言うことも出来る。

水。誰にだって必要なもの。
それをありのままに大切のものだよねと言うことも出来れば。
味気が無くて飲もうとは思わないとかマイナス方向に言おうと思えば出来る。

やろうと思えば出来るし、出来るけど、
そもそもその前に人それぞれ色んな意見があるのが当然。
言おうと思えば言えると感じたことも、誰かにとってはそれがありのままの意見かもしれない。
自分の好きな部分が誰かにとっての嫌いな部分だったり、その逆もあったりなのが当然である。


結局のとこ、これが別に何かの趣味だろうと、食べ物一つだろうと、何かについての感想だろうと、
対象が何であれ、
人それぞれの感じ方があるのが当たり前で
良いだろうと悪いだろうとどうでもいいだろうとどんな意見があってもいいしそれが普通。



また、言う場所や言う相手によって自分の気持ちと違うことを言うことだってある。

自分では嫌いと思っていても相手を立てる為だったり、
嫌いの感情を出すのが損になる場合なら良く言うことだってあるしそれが出来る。
自分では良いと思っていても相手が嫌いだったり、
良いの感情をあえて出したくない場合なら悪く言うことだってあるしそれも出来る。
もちろんこれらをしないことだってある。
よく分かってなくてしないこともあるし、あえてしないことだってある。

更に言えば世の中には天の邪鬼なんて言う人達もいたりで、
自分の気持ちよりも優先するのは全体が寄る方向から反対側へ反対側へ。

そういう色んな人や人の姿勢まで絡んでくるわけで、
見かけ上一つの意見、感想でもそれだけ多少複雑な上に成り立っている。
だからこそ、色んな感想があってそれが普通。
その感想に対して思うことだって、また人それぞれで、
何か一つのことに対する人々の気持ちはそうやって何層にも様々な色で積み重なっていくもの。



しかし時に、全体が同じ方向を向いているように見えるものがある。
色んな感想があってそれが普通なのに、
全員が全員同じ感想でいる。
その規模が小さいってわけでもない。

たとえそれが何かを盛り上げるようなことであっても、
何かを盛り下げるようなことであっても、
同じ方向を向いているのは有り得ないって思うしそれでいいと思う。

皆にとって嬉しいニュースがあって喜んでる時に「ケッ」てなってる人がいたっていい。
悲しいニュースがあって沈んでる時にそれを喜ぶ人がいたっていい。
もちろんそういう人は大抵残念な目で見られるものだと思うし
行きすぎた行為はそれをまた他の誰かに咎められるのは当然だと思うけど
そういう人達まで含めて人間だと思う。


だからこそ、気持ちを共有する為にあるようなファンの集まりでも無いのに、
誰の何でもいい気持ちが載るべき場所のはずなのに、
そこにいる全員が全員同じ方向を向いているものが見えたらそれは危ないって思う。

本当に全員が全員同じ気持ちでいるかもしれなくても、
何のブレーキもかからずに、指揮官もそこにいないのに、
全員が同じ方向へ進むことも危なく見える。
全員がどこに向かって進んでいるのか分からなくなる時が一番怖い。

でもその前に、全員が全員同じ気持ちでいるように見えないことがある。

よく見たら色んな意見があるのに何故か特定の色が排除されている。排除されていく。
塗りつぶされるものには取り立てて酷い内容が書かれている訳でもない。
そういうものは最高にヤバい。そう感じる。

なぜなら物は言い様だから、
全ての物は良く言うことも出来るし、
全ての物は悪く言うことも出来る。

なのにそれが無いなんて。
いや、むしろそうしているからこそ同じ方向を向いているように見えるのかも。
やっぱりそれは何か意図があって怖い。
そう思うだけの人の感想。

まったいら



最近そういえば携帯の万歩計機能をチェックしてなかったなぁとふと思って
立ち上げてみるとそこには綺麗な直線グラフが。

いや、もう直線っていうか地べたと同じ高さに平行のなんか。超地面スレスレ。
ラジコンヘリだったら事故ってるやつ。

んんなんだこいつは、グラフじゃよく分からんぞ、
こうなったらグラフでなく数値として確認出来るモードに切り替えてみよう、えいっ、
うんうんなるほど、0歩!0歩!0!0!0!なんと1ヶ月分オール0歩!

どこからどう見ても全てがゼロ。
もうゼロ過ぎて紅白ものまね歌合戦だったら逆の意味でかなり歴史的な瞬間だろうし、
欽ちゃんの仮装大賞だったら流石に欽ちゃんも黙るレベル。でも審査員が泣きで1点ぐらいくれる。
通知表ならお説教確定コース間違いなしだしRPGの戦闘中なら完全にバグってる。
もしくはなんかのアイテムで無敵状態を解除しないとマズい。やられる。

どんだけ画面をスクロールしても「0歩」の表示が変わらないので
最終的にはもう「歩」の字とかなんかゲシュタルト崩壊してきた感じだった。

携帯の万歩計機能っていうのは
ちょっと軽く携帯を振ったりしても1歩にカウントされることもあったりするので
それすらも一切無いとなるとこれはこれでよくやったなと。1ヶ月よくやったと。

改めて直線グラフを見る。
0のラインから伸びた一直線をもう一度見ると妙な爽快感があった。

そこであえて軽く携帯を振ってみる。
適当にしばらく振ったら15歩になった。
もう一度グラフを見る。

0、0、0、0、0、000000000...............15!!

たった15歩でグーン!ってグラフが凄い伸びた。
たった15歩なのに急な坂道みたいな角度でグラフがグーン!ってなった。
この時グラフの上限は50歩。
そりゃ15歩も歩いたら歩いてないけどこうもなる。
誰も踏みしめていない雪道を歩くが如く、0だらけに15を刻むのも悪くない。

これでまたしばらくして0だらけの日々が続いて、
ふと見た時に15歩の日があればそれが今日。
「あぁこの時なんか振ってたなぁ」って思い出せる、そんな日の為の日が今日。

そういうよく分かんないけど個人的に小さい楽しみが久々に味わえたので今日は良い日。
と同時にこういう自分だけでニヤニヤ出来る小さい楽しみが最近少なくなってたなぁって思い出した。
だからやっぱり今日はかなり良い日。今から寝るけど。それでも良い日。

自分が生きられない理由(仮)1



遅かれ早かれ自分が死ぬとして、
どっちにしたって今後自分が真っ当に生きていける可能性は限りなくゼロに近いと思う。

なのでその遅かれ早かれの前に、
なんでそう思うのかぐらいはまとめておきたいなぁって思う。

ただ、これは自分の致命的な問題が何かという話になるし、
致命的であるが故にそれが何なのか本当はよく分かっていない、
分からないことが分かってない状態という可能性もあれば
致命的だからこそ自ら意図しない所で見ないようにしたりねじ曲げようとする可能性が高い。

なので(仮)とつけての一回目のチャレンジとしてみるのです。
してみる割りには二回目の予定は全然ナッシングだけど。


とりあえず、現状思っている自分が生きられない理由は
自分を変えることをしようとしない。
これだと思う。

パッと表面的な問題点を考えれば色々と思い付く所はある。

対人関係が絶望的、もはや脊髄拒否反応から始まって
単純に技術やら体力が無いこと、お金が無いことも問題かもしれないし、
健康状態も最近はよろしくない感じでこれも問題と言えば問題か、
また何かをやろうとしてもサッパリ長続きしない性格、いや性格でくくればもっと多くの問題が、
そもそも対人関係でいけば相手の存在を受け入れての行動みたいなのが出来ないし、
もっと言えば思いやり?って形容するのか、多分そういうのが足りないっていうか無いレベル、
あといちいち行動するのに凄く時間がかかるのも問題かも、
コンビニ一つ行くのにためらって結局一週間ぐらい行けなかったから料金払えなくて携帯止まってたとかもあるし、
あとなにかと諦め癖も凄ければ有言不実行な部分はもちろんのことなどなどなど。
掘れば掘るほど問題鉱脈から問題がザックザクで鉱夫もびっくり。

しかし思い付く問題それぞれにきっと難易度があったとしても、
大抵の問題はそのままにしていたら問題のままなので、どこかで何かに取り組まないといけない。
日頃から良くない部分があったら反省して行動を改めなければいけないし、
もし良い部分があるならそこを基点にしたり、少しはそれを自信にすればいいと思う。
ただこれを一切やる気が無い、問題完全放置。
こんなん書きながらも気持ちに変化は一切無し。
やる気も無ければどうしたらいいかも分からない、けどそもそもそんな気が未だに無い。

だから問題は問題のままだし、
問題は新たな問題を産むし、
こんなほぼ無に近い日常生活を過ごすだけでも問題は増えたりするし。

自分自身を変えなくても生きられる人はいると思う。
ただ、ここで書いてる奴の自分自身やその状況は少なくともその人とは違うものだと思う。
そもそも自分自身を変えなくても生きられる人がいるなら、
それはそう見えるようでいて、常日頃色んな経験を学べる姿勢にあるのかもしれないし、
過去に色々と取り組んで来たからこそ、そういう変えなくても大丈夫な状態にまでなったのかもしれない。
最初から何もしてない人はいないだろう。
そうならこれに限りなく近くなってるのでは。


誰でも生きていれば、ただそれだけでたくさんの大小様々な問題に直面するわけで、
その問題達には何かしらの折り合いをつけないといけない。
お腹が空いた問題。なんか寝れない問題。
学校生活が大変問題。お隣さんとソリが合わない問題。
歌を上手に歌いたい問題。フルマラソンを完走したい問題。
今度の休日は何しようかな問題。いつもつまらないことで悩んでしまう問題。
そういう人生を生きるうちに出会う様々な問題。問題はなるべく細かい単位にしたい。
それは解決することかもしれないし、ある程度で妥協することかもしれないし、
サッパリ諦めることも時には必要だろうし、折れずに継続し続ける時もあるだろうし、
そういう色々な問題への折り合いの付け方を、色々な問題に対してしなければいけないと思う。


その積み重ねの内に、何かが少しずつ変わって、
その中で新たな発見をしたり経験をしたり価値観を持ったり、
それがきっと成長ってものだと思うし、
成長するからこそまた新たな問題が産まれて、その問題と折り合いをつけて成長して。
そういう繰り返しを続けていくことこそが真っ当に生きていくってことなのかなって思う。

最初からラスボスは倒せない。
スライムを倒す所から、時間をかけてラスボスを倒すのだ。


一方その問題と向き合わず、見失って、
何が問題か考えることも諦めて、
ただ時間だけが続いていく世界。
これはやっぱり生きていけないのだと思う。

ぶっちゃけた話お金があればなんとかなる。
時間だけ続く世界でいいなら、お金があればなんとかなる。
ただそれで続かせたとしても、それは真っ当に生きていくことでは無いだろう。


遅かれ早かれいつか死ぬとして、
ここまで書いても、
自分を変えようとはしない。

だから生きられない。
これが理由なのかな(仮)って思ってます。

有名なひきこもり画像に思うこと

 

 

f:id:amahiki0000:20110205214006j:plain



引きこもり関係の画像として、上のjpgを見たことがある人も多いと思う。
結構昔から存在していたように思うし、
今でも「引きこもり ご飯」なんかで画像検索すればトップバッターはこの画像だ。
元ネタは知らないけど、右上にテレビのロゴらしきものが出てるのを見ると引きこもり特集的な映像からだろうか。

この画像を見た人はまず何を思うだろう。
うわぁ切実だなぁと思う人もいれば
やめてくれーなんて思う人もいるかもしれない。
引きこもりってこんななのかよって笑ったり安堵する人もいると思う。


個人的には腹立つ。主に二つの理由で。

まずその書いてる内容を本人に言えよって思う。

メモに書いて、本人に言えない理由はそれが意味無いとか抵抗があると思ってるからだと思う。
言ってもどうせ聞いてくれないとか、
喧嘩になるかもしれないとか、
向こうから暴れられたらどうしようみたいな。
とにかく直接的な関係を拒んでいる。何かあったら困る。対処出来ない。だからメモを書く。
メモならメッセージは届けられる。私は気持ちを伝えました。おわり。ちょっと無責任。
もちろんその後「読んでくれた?」とは聞かないだろう。
それが言えるならメモなんて書かない。言えばいいんだから。

むかーーし少しだけ勤めてた会社にもあったけど、
辞めさせたい人間とは直接的な接触を避けるというテクニックがあったりするようで、
本人が近くにいたとしても、メモ書きを残して口では直接伝えない。
なんかで読んだ心理学だかの本によるとこういったテクニックは「私は貴方という存在を認めません」という印象をこっそり与える効果があるそうで、
これを継続させることで少しずつ相手を追い込んでいく。
意図してかそうでないかは別として、実際にそのやり方をそこでは目の当たりにしたり、されたりもした。
これもあんまやってることは変わらないと思う。


次に、このメモの内容は心配でなくお願いである。
部屋から出て来て欲しいと書いてある。
引きこもりの生活は大して楽しくない。いや、正直最初の数年は楽しかったりした。個人的に。希有な例かもしれないけど。
けど、この歳にもなるとなかなかそういう感じにもならなくなって、楽しいフリをしていても、流石にそれも辛くなってくる。
この画像で部屋の中にいるだろう引きこもっている人も、
部屋から出ることをメモでお願いされるくらいだから、相当事態が深刻になっていることが予想され、
日々がもうどうしていいのやら、でもそれについて考えるのは大変なので、
なんとか、自分で言えばモニターの向こうなり、恐らく部屋の中で何かに逃げているのが精一杯の状況ではないだろうか。

そういう気持ちが一杯一杯な状況でされるお願いは結構辛い。
何か支えになるちょっとした一言が欲しい時に、部屋から出ることをなおお願いされる。
嘘でも大丈夫だよと言って欲しい時に今ならまだやり直せるからお願いって言われちゃう。
そしてそんな強めのお願いを、私は心配しているのよというトーンで来ているのが厳しい。
それでもまだ部屋から出て来て欲しいと要求するぐらいの態度なのだから、
部屋から出したいなら家から放り出すほうが態度としてまだ辻褄が合う。
それぐらい強い要求だと思う。
でもメモで書いて届けて終了。お母さんは心配してます。

こういう要求をこういう態度で書いてるからこそ、何言ってんのって思うし、そりゃメモで書くわって思う。
本人にこれを直接言ったとこで話しにはならんだろうなって。
昔は直接言ってたかもしれなくても、こうやってメモになった過程が想像出来る。
結局相手を認めていないから、
うちの子供が引きこもりでヤバくって、
世間様に顔向け出来ないから、
その為に部屋から出て欲しいってお願いしているんじゃないかと。
自分のお願いを心配しているんじゃないかと。
相手を認めないのは、きっとこれよりずっと昔からなのではと邪推もしてみたり。

そもそも、お願い通り部屋から出たところでなんなのだろうか。
「まだやり直せるから」とリンクしてない。
部屋から出ることは復帰の第一歩じゃない。
恐らくこのメモでお願いされてしまう状況でなら部屋から出ることは第十歩とか百歩とか、もっと大変なものだ。
いやこの例えもピントがちょっとズレてて、
社会復帰する為に必要なのはまず部屋から出ることではなく、
社会に戻るために必要な、技術やら知識やら人と人との問題やら自分の気持ちの問題やら。人それぞれ違うだろうけど。
そういう、自分だったら人の気持ちを考えた行動を取れるようになるとかそういうこと。をするために今出来るであろうことをすること。自分は出来ないんだけど諦めてるけど。もしするならの話で。
だからそれらは別に部屋を出たところで解決しない。
もちろんそこには部屋を出る行為も含まれるだろうけど、部屋を出ることそのものじゃない。
何故部屋から出ることをお願いするのか。何するのかぐらい想像して分かれよということだろうか。
まだお願いまでするのならせめてそれについてをメモに書くべきだろう。
わざわざ部屋から出ることをお願いする必要は無い。

このメモ、実は何をお願いしてるのかもよく分からないってのもある。
読めば読むほど部屋から出ることがやり直せることへ繋がるように読める。んなことないのに。
要約すれば「なんとなくお前が全て万事上手くいけますように」と書いてあるように思えて仕方ない。
部屋から出たらあとはなんかうまいことやっといてよ。まずは部屋から出ることだよ。まだやり直せるから。



最初にも書いたけど、この画像、右上にテレビのロゴらしきものがある。
なので、元ネタ知らないから違ってたらごめんだけど、引きこもり特集的な映像だと思う。
だからテレビの人も来ているし、頑張らなくちゃと思っての結果がこれかもしれない。
きっとこのお母さんもお母さんなりに真剣に心配して、振り絞った内容がこのメモなのだろう。
(ただメモに手慣れてる感があるので初めてのメモではないと思う。)
背中を押すつもりで、突き落としているけど、マジで悩んで出たメッセージがこれ。
今伝えたい言葉の最終形が「部屋から出て来て」。お願いします。救いの言葉なんてない。

だから、この部屋で引きこもっている人は、このままだと改善しないと思う。
毎日こうやって暗にお願いされ続けて、お互いにどんどん疲れてしまうだろう。
もしどこかで助けて欲しいって気持ちを持っていてもそれを解決してくれる人はいない。
このお母さんだってえらくズレてるけどガチ悩みなのだろうし。
この疲れを取るにはもっと部屋に逃げて発散するしかない。ハイパー悪循環スパイラルである。

このメモ地獄。会社なら辞めればいいけど家はそうもいかない。
もしこれを改善するなら、その家を放り出される前に自分から飛び出すしかないと思う。家を辞めるのだ。
家族の縁だなんだ、そういうのを全部振り切って、引きこもってるならやりやすい環境ではあるはず、おかしな人やメモから逃げ切るのだ。
飛び出した所で結局また新天地で引きこもって、
今より美味しいご飯が食べられなくなるかもしれないし、
それどころかまともな生活が成り立たなくなるかもしれない。
酷く疲れたとしても、それは今感じている疲れとは別の疲れになるのではと想像する。
きっと、今家で感じているものよりはマシな類いの疲れだと思う。だってもうメモは来ない。

心がヘンテコな状態で引きこもり始めたら、お金のある限り引きこもって結局そのまま死ぬと思う。
どうせ死ぬなら、少しでもマシな死に方でありたい。
変な疲れが無くなるだけでも、それはそれなりに、多少はマシと言えるのではないだろうか。